それは単なる偶然だった。
あれは日の暮れた街を宿に向かい歩いていた時だった。
突如がらがらと大きな音が耳に飛び込んで来て、従者がぴくんと横を見た。私も興味本意にそれに倣った。音がしたのは一本入った路地からだ。普段ならば通り過ぎただけだったかもしれないが、その日は何故か興味が勝り、諌める男を無視して路地へと一歩足を踏み入れる。なに、この男がいるときならば、そう厄介事にも巻き込まれないだろう。
興味本位な行動をとって、正解だったようだ。その路地には、随分と酷い有様の女性が転がっていた。職業病で近寄り、状況を観察する。出血が見えた。当たりを見れば、点々と道に長い模様が描かれている。
「……大丈夫か?」
目をつむっている女性に、意識があるかの確認の意味で声をかける。大丈夫じゃないと、弱々しい声がかえってきた。意識はある。他人の言葉も認識できている。だがすでに朦朧としているようだ、どこか夢心地である。腹部にあてた手の合間から、血が流れている。貧血をおこしているのだろう。裂傷か。致命傷ではないが、放置できるほどの軽傷でもない。布を取り出し、もはや力の入っていない彼女の手をどかして、患部を圧迫する。近づくなり、ぷん、と鉄の匂いに混じったのは濃い酒の匂い。まったく、随分と飲んでいるようだ。酔って喧嘩でもしたのだろう、と男であれば最悪捨て置くのだが。
縫合が必要だが、生憎医療道具は持ち歩いていない。早急に隊商宿に戻らなければならなかった。
「君、少し動かすぞ」
女性からの返事はなかった。意識を失ったらしい。
応急の止血だけをして、私は女性を運ぶようにと、従者に目配せした。彼女を持ち上げる際、なんだか覚えのある状況ですと彼が呟いたが、私にはなんのことだかわからなかった。
傷は案の定、きちんと処置をしておけば良い程度だった。消毒し、数針縫って包帯を巻く。
彼女はしばらく寝ていた。娘とよく似た髪と肌の色をしていることに、ふと気づく。そのせいだろうか、この女性を放置するわけにもいかず、娘のことはしばし従者に任して、彼女が目を覚ますまで待つことにした。
幾許かののち、彼女はふと目を覚ました。何度か瞬きをしたのを確認してから、そのぼうっとした顔に声を投げる。
「気がついたか」
瞼の下から現れた翠の目がこちらをみた。
「誰だ?」
やけにしゃがれた声で、訝しげに問われる。それもそうだろうな、と思い、状況を説明しようとした。だが彼女が身を起こそうとするものだから、私はその説明を飲み込んだ。案の定脇腹が痛んだらしく、女性はほんの少し呻いた。そこで彼女はようやく、自分が治療を施されたことに気づいたようだった。
「あんたがこれを?」
「怪我をしているようだったからな」
「……御親切なこって」
随分と粗雑な口調でそう言い、女性はふんと鼻を鳴らした。この程度の非礼をいちいち咎めるほど、私は狭隘でもない。このくらいの手間で一人の人命が助かるというのなら、お安いご用である。医者とは、患者に対しては寛大になれるものだ。
「何があった?」
おおよその察しはついたが、状況説明を求める。
「何だっていいだろ」
ちらりと彼女が私の顔を見た。この顔では、奇妙に思われるのも仕方がない。いつものことだが、気分が良い訳ではない。無言のまま先を促すと、やがて面白くもなさそうに彼女は口を開いた。
「酒場で飲んで、喧嘩して、刺された。そんだけだよ」
想定の範囲内ではあったが、まったくどうして、男まさりというだけでは形容しきれない御婦人のようだ。漏れそうになったため息は、辛うじて飲み込んだ。
おもむろに、迷惑かけたなと言って彼女が立ち上がろうとするものだから、待てと制止した。彼女はそれを、治療費の要求のためだと思ったようである。肩を竦めた。
「……悪いが、オレ金なんて殆ど持ってないぜ、全部酒に消えちまった」
オレ、ときたか、嘆かわしい。その一人称に内心呆れる。クライズクラウ辺りには怒られる意見だろうが、男ぶる女性というのは、あまり好ましいとは思えない。幸い私の腹のうちは顔には出ないから、彼女は気付かなかった。こういう時には便利な自分の顔だが、最近はふとしたことに動くものだから、過信もできない。中途半端なことだ。
「だろうな、その酒焼けした声では」
悪いか、というような表情を向けられたが、そのことを詰めるつもりはなかった。
「別に医療費をせしめようと思っているわけではない。……まだ動かないほうがいい、傷口が開く」
傷が開いては元もこもない。まっとうなことを言っただけなのだが、女性は不思議そうな顔をした。なぜ治療をしたのかが、よくわからないとでもいいたそうだ。
「たいして手間がかかる治療でもないし、この街に滞在中の暇つぶしとでも思ってくれたまえ」
ふと名乗りもしていなかったことを思い出し、一応軽く自己紹介をしておく。彼女は名を名乗らなかったが、別によしとする。彼女の興味は、別のところにあったようだ。
「アンタ旅の途中なのか」
「ああ、隊商に属してる」
ああ、と何かを反芻していたから、隊商の存在は知っていたようだ。ふとじろり、と不躾な視線をおくられる。まったく無作法なことだ。
「アンタ、旅なんか似合わなさそうだ」
よく言われる、とだけ答えた。自分でもそう思う。人探しの為に加入したのはもう数年前になる。目的は果たした。しかし従者の奨めるようにどこかに定住する気は、未だ不思議と起きないでいた。この隊商は、退屈することがない。気づけばおかしなくらいに、この暮らしを気に入っていた。
なにを思ったのか、ふいに彼女の顔が暗く沈んだ。
「……なんで助けた?ほっといてくれりゃ良かったのに」
「何故?」
返事はない。彼女はただ、その目を曇らすだけだ。
「死にたかったのか?」
問うべきか悩みつつも、結局直球の言葉をぶつける。一瞬困ったような顔をしてから、彼女は自分でもわからないんだという様に、しらねえと吐き捨てるように呟いた。どこか自嘲の滲む顔をしたままで。
「ただ、この先どうしたらいいんだか悩むぐらいなら、あのままの方が良かったかもな」
気づかれない程度に、私は息を飲んでいた。
ああ、それは自分にも覚えのある自嘲だった。どうすればいいかわからず、答えを探す気にもなれず、自分に未来があることを後悔していた頃の。
そのくせ私は、こんな時にどう対応すればいいかわからない。感情の機微を察知したり、優しく声をかけたり、そんなことは昔から苦手だ。察したところで、私の顔では人に安心感を与えるような役目をついぞ果たさない。この場にポストーチがいないことを、少し悔やむ。彼女ならば、私がこの女性にかけてやりたいとおもう言葉を、上手いこと口にしてくれるんだろうに。
「……大丈夫か?」
当たり障りないことが良いかと言葉を選んだつもりだった。だが、それは失敗だったようだ。ぱっと顔をあげた彼女は、私の言葉に苛立って、戸惑って、怒っているようだった。彼女が投げつけてきた枕が、肩にぶつかって床に転がった。
「やめろよ…大丈夫か?大丈夫なもんか!いつだって大丈夫な時なんかなかった!だけどそう言ったって何も変わらないだろ!」
喚きながら、不意に襟首を掴まれる。普段ならば許しがたいが、今は仕事中だ。興奮した患者が突飛な行動にでた、そう認識して、やりすごす。まして相手は女性である。
苦しくはなかった。腹を縫ったばかりで、そう力がはいるわけもないのだから。そう、私は冷静に、彼女を見ることができた。彼女の怒りは、私を通して、別の何かにぶつけられている、と。今まで行き場無くやるせないまま放っておかれた類のものが、なんの拍子か私の言葉で爆発したのだろう。娘が癇癪を起こすときと、それはどこか似ていた。
「だったらオレは、大丈夫って答えるしかないじゃないか……」
それは、悲しそうな声だった。どうしようもなかった。その言葉は私に向けられていて、誰にも向けられていなかった。
私がなにも答えられないで、ただ彼女を見ているうちに、やがて彼女はふと自分を鼻で笑って、襟首から手を離した。
「つまり大丈夫じゃないんだな」
彼女はなにもいわなかったから、それが正解の解答かはわからなかった。バツが悪いのだろう、かわりに顔をそむけられる。直情的な性格らしいが、根っから粗野というわけでもなさそうだ。この妙齢の女性が飲んだくれてやさぐれて、男を気取るかのようになってしまった原因は無論知るわけもないが、だが心が荒む、ということについては、私にも覚えがある。
「もう、なんにもする事がなくなったんだ。こうするもんだと思ってたもんが、綺麗さっぱりなくなっちまった。お先真っ暗って奴だよ。この先どう生きていきゃいい」
どうやって生きていけばいい、か。これまた、身に覚えがあってありあまる。こうなる、とおもっていた事が一瞬で朽ちて手の届かないところにいってしまった喪失感。
「そうだな」
それに対して、私が答えをみつけるまで、五年はかかった。彼女はまだ、探し始めてもいない。
同情を示すことはできる。だが、こういう答えは自分で見つけなければ、納得できないものだ。いま私が口にできることは医者としての意見だけだ。
「……まずはよく食べて寝る事だ」
「は?」
真面目に言ったのだが、彼女は何を言っているんだとばかりにぽかんと口をあけた。
「酒は控えた方がいいだろう。あれの旨さはわかるが……酒やけするほど飲むべきじゃない。まずは生活の基本を正せ、大事な事だ。特に女性は」
彼女は、ますます唖然とするばかりだ。何が問題だというのか。
「それからどう生きていくか決めればいい」
ようやく口を閉じたものの、彼女はしばらく、何も発話しなかった。
当然か、お先真っ暗だと、つい先ほど言っていたぐらいだ。よくも知らぬ人間にそんなことを言われても、普通は困る。
「…先立つものがねえよ。アンタに治療費だって払えない」
治療費くらい、気にしないというのに。これで案外律儀なんだろうか。
「なら、隊商にでも入ればいい」
参考までにと、マリーヘの名を伝える。きちんと働きさえすれば、彼女は大概の人間を受け入れてくれるだろう。道に迷っているならば、そんな選択肢もある。
彼女は困ったような顔をする。
「働くのは嫌か」
「楽できた方がいいけどな」
冗談のつもりだったが、通じなかったようだ。
「そんな、普通に生きてていいのか」
普通に、か。
「どれが普通かは知らないが」
既視感に、一瞬頬が緩む。
「いいんじゃないか、君はまだ若いんだ」
そう言えば、なぜか不服そうな表情をされた。理由は良くわからなかった。
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