その後しばらく、我々は少年の世話になった。
彼の助けを借り、ラージー医師に連絡を送ることもできた。ルフと呼ばれる精霊の存在を、そこで初めて知った。この地では、このルフを生活の助けとして使うこともあれば、逆にこのルフが魔物として人々を襲うこともあるらしい。
「随分な魔境に紛れ込んだものです」
「驚く程でもなかろう。我々の元にも、死に神や魔物の伝承はある。見えるか見えぬか、その差だ」
主は妙に達観していた。新しい環境を楽しんでいるともいえるその姿勢に、実際のところ、私は喜びを隠しえなかった。
充分な休息は、主に僅かながら生気を取り戻させた。国を出たころの憔悴に比べたら、随分と元気になられたものだ。なにより、口数が格段と増えた。
ドミトリー様、貴方様の選択は、確かに御子息を生き返らせたようです。私は密かに、亡き先代に祈った。
「サーシャ、グーリャ」
少年、ナーターンが部屋に飛び込んできた。急いでいる様子だ。何事かと主が彼と言葉を交わす。いくばくかのやりとりののち、主が私にわかる言葉で、それは重畳、と呟いた。
「旦那様?」
「ラージー医師の使いが、見えたようだ」
「なんと」
「店先に来ているとのことだ」
主の意図を察し、私はナーターンと共に店先にでた。
そこには、浅黒い肌をし、髭を蓄えた小柄な男性がたっていた。
「ああ、よかった!」
私を見るなり、彼は手をとり、泣き出しそうな勢いで喜んだ。
「私、ラージー先生の使い、ムハマドです。ドストエフは兄弟子だったです、言葉、すこしわかるます」
片言ながら、彼は我々の言葉でそう言った。
「有り難いことです、ムハマド殿、私はセルゲイ、アレクサンドル様の従者です」
「きいてるですよ、セルゲイさん、アレクサンドルさんは?」
「お部屋でおやすみです」
うなづいたムハマドが今度は私の横にいたナーターンと言葉を交わす。話はついたようだ。出立を明日と取り決めた後、ムハマドは彼の泊まる宿へと帰っていった。
「そうか、明日か」
「ここから五日は、砂漠を渡ることになります。ある程度の準備は彼が揃えてくれたようですが、今晩はゆっくりお休みください」
「ここにきてから、ありえないほど眠れている。大丈夫だ」
少年からかりた本を爪弾きながら、主は苦笑まじりの声で言った。はて、本?
「旦那様、それは?」
「子供がつかう語学学習の絵本だそうだ。暇だから借りた。」
のぞきみると、可愛らしい絵がかかれている。単語を覚える類の本だろうか。
「まあ、文字が違い過ぎて、ほとんどわからんがな。視覚的に眺めておくだけだ。彼から、少しは教わったのだが」
紋様のようにしか見えないこの国の文字は、たしかにさっぱりわからない。それでも主は生来の知識欲を幾許か満たしているようだ。
これが、あの頃死ぬことばかりを願っていたお方とは。眩しすぎる太陽のおかげだろうか?とにかく、彼に、先に進む気力があるという事実に、私は神に感謝した。
翌日日が落ちてすぐ、我々はこの港町を後にすることになった。
日の高い日中では、満足な移動ができない。よって、砂漠では夜を中心に移動をすることになるという。後は何事もなく、目的地にたどり着けるよう祈るだけだ。
ナーターンが、街の出口まで見送りにきてくれた。本当に散々世話になったものだ。宿代も、彼は受け取ろうとしなかった。
主人は、ふと思い付いたように、長い袖をたくし上げた。そして、腕に残してあった一際美しい金の腕輪を、少年に差し出した。少年は慌てて首を横に振る。主人は何も言わず、首をかるく縦に振った。
しばらくの沈黙ののち、根気負けした少年は、その腕輪を手に取り、大切そうに懐にしまった。
「旦那様、その腕輪は」
「些か重かったのでな」
どうせ単なる金策だと、母君の形見を手放したというのに、主人は平然としていた。
ムハマドが、出発を促す。主人は軽く少年に礼をし、踵を返した。
「ナーターン」
唯一覚えた拙い言葉が、口をついた。
「شكرا」
少年は笑って、多分気をつけてか、さようなら、と言った言葉をくれた。
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